渋谷で働く東大生起業家のブログ

現役東大生がITで起業してみました。日常のリアルや日頃の思考をアウトプットして行きます。

変なプライドに気をつけよう

変なプライドとは

僕が変なプライドと呼んでいるものがあります。一般的な意味合いとしては、いま特にこだわるべき場面でもないのに、何かに固執してこだわっている人がいた時に、変なプライドがあると言います。

変なプライドという言葉自体は、たまに聞く言葉ですが、その一方でこれについての本質的な意味を本当に理解している人は実は少ないと思います。というのは、よく「変なプライド」という言葉が使われるとき、他の人が変なプライドを持っているといった感じで使っているからです。

変なプライドについて僕の思うところは、変なプライドを他の人が持っているかどうかはさして重要でないということです。他の人に変なプライドがあるぞと思ったら、その部分には触れないようにしておくとか、気を遣いなから接するとかそれくらいで良いです。

それよりも、もっともっと重要なのが、自分が変なプライドを持っているということに気づくことなのです。

変なプライドは自分の首を締める

変なプライドは、選択肢を少なくし、フラットな思考を妨げます。

例を言います。例えば、「自分より学歴の低い人から論理的な間違いを指摘されたくない」とかが変なプライドの典型例です。別に人間なので、誰だって論理思考の5割くらいはミスりますし、ミスってもそれは当然です。どんなに合理的な天才でも完全無欠の論理を生涯に渡って突き通し続けるのは不可能です。さらに、論理構造のミスの発見などは、その視点の発見による発見なども多いため、自分より学歴の低い人から論理的なミスを指摘されてそれが正しいなんていうことも当然たくさんあっても普通なことです。

しかし、学歴の高い人は自分が賢いということに「変なプライド」を持っているパターンが多く、自分が賢いことにこだわる人が多いです。

たとえ他人からの指摘が正しくても、素直に受け入れることができず、論理のねじ曲げを行って自己正当化を行ってしまうので、せっかく自分の間違いが正される機会を失ってしまうのです。そして、そういう人は大抵の場合ある程度賢いので、その場で自分が正しくなるような間違った論理を編み出して、自己正当化をできてしまうのです。

変なプライドは意識的に捨てた方が幸せになれる

変なプライドは捨てた方が良いです。結局何かをするにあたって、本来ひとはあらゆる選択肢を持っている訳です。 しかし、変なプライドがあることによって、僕はこんな下らないことはやりたくないとか、私にはこれは相応しくないとか、そういった考えに結びつき、選択肢を妨げてしまっているのです。

もちろん、プライドがあるから人は頑張ることもあります。それは良いプライドです。負けたくないとか、諦めたくないとか、そういうのは良いプライドだと思います。

でも、僕の言う変なプライドは、自分が生きる上で障害となり、自分の幸福へ続く道のりを通行止にしてしまうものです。年下からものを教わっても、自分の学びが増えれば、本来はそれでいいはずなのです。でも、年下からものを教わるのが恥ずかしいとかの変なプライドで、人はチャンスを失うことがあるのです。

誰もが気づかずに変なプライドを持っていることがある

そして恐ろしいことは、誰しもがそんな状態に気が付いていないことです。

変なプライドを持っていると言う認識もなく、変なプライドを持っているのです。「自分が持っている、このこだわりの考えって必要だっけ?」いつもそう考えながら

生きていくといいと思います。そう思っていてすら、変なプライドは発見するのが難しいです。

「自分より学歴の低い人から論理的な間違いを指摘されたくない」という例をあげましたが、これは実は僕自身の例です。しかし、僕自身がこのプライドを持っている時は、こんなプライドを持っていると言う意識はなく、そこにあったのは「感情」でした。

変なプライドを捨てよう

僕は、変なプライドを見つけたらラッキーだと思って生きています。

どんどん自分の思考がフラットになっていくからです。皆さんもこうした考えを取り入れてみてはいかがでしょうか。